リアルウェア
ソフトウェアは空(くう)
濱 勝巳(はま かつみ)
株式会社アッズーリ
アジャイルプロセス協議会 会長
『リアルウェア:ソフトウェアは空』に対して、これをテーマにした濱氏−大槻の対談が「対談:リアルウェア」です。
概要
本論文は、ソフトウェアを知らないままソフトウェアについて語る事ができないという前提のもと「ソフトウェアとは何であるか?」という問題を掲げ、それに答えることによって新しいソフトウェアの姿とこれまでのソフトウェアを取り巻く世界の問題を知働士と技術者の対話とその解説によって提示しています。
知働士と技術者との会話
A こんにちは、なんか蒸々して暑いですね。こう暑いと冷えたビールでも飲みたくなりますねぇ。今日はあなたが経験のあるソフトウェア技術者だという事を聞いて、ちょっとだけ話を聞いてもらおうと思って来ました。お忙しいところすみませんが、少しだけお時間よろしいですか?
B 次があるのであまり時間はありませんが、少しだけなら構いませんよ。
A ありがとうございます。あなたは、実務経験も長いソフトウェア技術者であるということですので、ソフトウェアについて十分熟知していると思ってもよいですね?
B ええ、それなりに色々なプロジェクトにも参加してきまして、自分で云うのも何ですが、それなりの経験は積んで来たつもりです。技術者足るもの日々スキルアップしていかなければならないので色々と勉強しています。これまで、何人もの後輩に指導もしてきましたので、大概の事であればわかっているとは思いますが…
A それは良かった。いやね。実は、ソフトウェアについてお話をしたいのです。
B はい?それは、何かのプログラミングについてですか?それともオブジェクト指向ですかね?そうじゃなければソフトウェア工学についてとか?ソフトウェア製品の使い方ってことではないですよね。“ソフトウェアについて“ではわからないので、具体的にソフトウェアの何について話をしたいのかもう少し詳しく聞かせてもらえますか?
A いいえ、いいえ、そういった類の物ではなく、ソフトウェアについて教えてもらいたいのです。ソフトウェアの“何か”ではなく、ソフトウェアが何なのかあなたの意見を聞かせてもらいたいのです。
B ソフトウェアが何であるかだって、ハハハッ。そんなの簡単ですよ。えーっと…ううん…
A どうしました?ソフトウェアって何ですか?
B ソフトウェアってプログラミングですかねえ?いや、それはおかしい。プログラミングソースのことかな?それも違うな。じゃあ、 実行モジュールやバイナリコードのことか?構造やロジック?うーん、ソフトウェアねえ。ソフトウェアは、ソフトウェアだよ。おかしいな、わかっているはずなのに…
A 困りましたね。ソフトウェア技術者のあなたがソフトウェアを知らないなんて。
B はあ、お恥ずかしい。ソフトウェアが何であるのか、簡単に答えられないなんて、私はこれまでソフトウェア技術者として何をしていたのか分からなくなりました。ああ、そんなことは当然の事、常識だと思っていたのに…、まったく、考えたこともありませんでした。だって、ソフトウェアはソフトウェアなのですから、それ以上でもそれ以下でもないですよね。
A まあ、そんなに落ち込まないでください。私自身、ソフトウェアとは何であるかがわからずに自問自答して、ある答えを見つけました。そこで、経験のあるあなたにソフトウェアが何であるかを確認してみたかったのです。これからソフトウェアが何であるのか、一緒に考えて行きたいと思っていますがよろしいですか?たぶん、私も含めて多くの人があなたと同じようにソフトウェアを漠然と捉えていて、良く分からないまま扱っているのです。不思議なものです。
B そうですね。落ち込んでいても始まらないので、ソフトウェアが何であるのが一から真剣に考えてみることにします。でも、ソースコードや実行モジュールを作るのが私たちソフトウェア技術者の仕事ですから、ソースコードやコンパイルされた実行モジュールが「ソフトウェアだ」とも言えるような感じは、そう間違っていないような気がします。でも、どうもそれだけでもないような気がします。その部分がどうも引っかかっているので、はっきりと「ソフトウェアとは是々である」と言いきれなくなっています。
A では、ソフトウェアが、あなたの言うようにソースコードやコンパイルされた実行モジュールだとした場合、ソフトウェアの対極にあるハードウェアとの違いはどこにありますか?
B それなら簡単です。ソフトウェアは、手で触れない物であって、ハードウェアは手で触れられる物ですから、ソースコードやコンパイルされた実行モジュールはソフトウェアであると言えます。解った。そうですよ、手で触れられない物がソフトウェアですよ。
A まあ、それでも良いのですが、ちょっと待ってください。あなたの言う通りだとするとソフトウェア技術者は“手で触れられない物”の技術者ってことになりますよね。“手で触れられない物”の技術とは、一体、どんな技術なのでしょう?電波や音波等の波、量子のような捕まえることのできないもの、宗教や政治、易や占い等も手で触れることはできません。あまりにも、ソフ トウェア技術者が扱う範囲が広すぎることになりやしませんか?ソフトウェア技術者が何をしなければならないのかとても曖昧になってしまいます。それに、印刷されたソースコードは“手で触れられる物”なのかどうなのか?印刷されたソースコードを“手で触れられる物”とするならソフトウェア技術者は ハードウェア技術者になってしまう。その分け方はちょっと無理があっておかしいですよね。
B なるほど、おっしゃることはわかります。でも、「触れられる物」と「触れられない物」という尺度で判断できないとなると、ソフトウェアは何だと言えるのでしょう。また、解らなくなってきました。
A 話を少し変えますが、あなたは、ソフトウェア技術者とご自身の事を言いますが、ここで云う技術は、科学技術を指すと思いますの で、ソフトウェア技術者とは、コンピュータ科学やソフトウェア工学と言われる科学技術を駆使する者であると考えてよろしいですね?
B はい。私自身、論理学や代数学といった数学を始めとして、コンピュータ科学やソフトウェア工学もずいぶん勉強してきました。これらの技術。ああ、科学技術ですか。その科学技術を組み合わせてソフトウェアを作ることがソフトウェア技術者の仕事であると言えると思います。
A 私の感覚では、数学やコンピュータ科学といった部分は、科学技術としてしっくりくるのですが、ソフトウェア工学となると眉唾なものの感じがします。工学自身が応用や統計といった物を使って現実世界の諸現象から導き出すものだから仕方ないと言えば仕方ないのですが、ソフトウェアが何だかも解らないのに、そのソフトウェアの工学だなんて、一体何が科学なのでしょうか?
B そう言われてしまうと、ソフトウェアについて答えられない私には何とも言えません。
A 話しを元に戻しましょう。
B はい。ソフトウェアが何であるかということですね。
A ソフトウェアが何であるかという問いに、先ほどあなたは、“手で触れられない物”がソフトウェアであると言いましたが、私は、それは強ち間違っているとも言えません。
B どういうことですか?“手で触れられない物”がソフトウェアであると。
A はい。
B でも、それだと範囲が広すぎて曖昧だと言いましたよね。印刷したソースコードの話からも手で“触れられる物”と “触れられない物”では分けられませんでした。それは、あなたが言った事ですよね。でも、今度は、“触れられない物”がソフトウェアとも言っています。なんだか解らなくなってきました。
A “触れられない物”の範囲が広かったのですから、それを狭めて、ソフトウェアを“人間の心”としてみてはいかがでしょうか?心は、手では触れられない物ですよね。
B 人間の心だって?確かに手では触れることができませんが、人間の心がソフトウェアだなんてますます、解らない。それなら、ソフトウェア技術者が、人間の心の技術者になる。そんなものは精神科医にまかせておいたらいい。ソフトウェア技術者の仕事ではありません。そんな話をしに来たのですか?
A そんなに怒らないでください。心というと確かに、突飛な感じがすると思います。…では、心ではなく「知識」としたらいかがですか?私は、ソフトウェアとは、人間の心、特に意識とか知識と言われるもの、そのものであると考えます。仏教の世界でいうと、有名の般若心経や唯識に見られる眼耳鼻舌身といった五根の感覚器官から第六識である意識の部分と自我を作るとされる末那識の部分を「知識」と呼びたいと思います。
B 仏教の世界は解りませんが、知識ですか?それならなんとなく解るような気がします。でも、ソフトウェアが知識だとすると、私たちソフトウェア技術者は何をしていることになるのでしょう?
A ある制約や条件を付けることで思考を停止させ、知識を言語化し記述しています。その記述言語が、私たちが日常的に利用する自然言語であり、CやJavaのようなプログラミング言語も記述言語です。打ち合わせでの会話や仕様書を記述したりする行為は自然言語で、コンピュータを操作するためには、プログラミング言語で記述します。デザインパターンやアルゴリズムといったものは、慣用句やことわざ、熟語であると考えることもできるでしょう。記述は、文章として書くことだけではありません。声に出したり、歌ったり、表情や仕草で伝えたり、絵を描くといったものも含まれると考えています。無意識でないならば、人が物を考える時は全て言葉や映像、音といった記述可能なものになっていると言っても言い過ぎではないでしょう。
B 知識がソフトウェアであるとすると言語化された記述はソフトウェアではないですよね。私には知識を全て記述できるとは思えません。記述されたソースコードや実行モジュールは、知識そのものではなく、知識の写像であると言えるのではないでしょうか。
A そうなんです。ソースコードや実行モジュールは、知識を写像し、複写可能にしたものです。コンピュータの上で解釈された言語化によって写像された知識は、ディスプレイやプリンタ等を通して人間が認識可能となります。知識は写像され複写されたということになるです。ただ、ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、知識が個人に依存するものであるということです。
B どうしてですか?象を見れば誰でも象だと認識する知識があります。日本語の知識を使って私たちは会話できている。四則演算の知識は誰がやっても同じになります。その知識が個人に依存してしまうようであれば、知識とは呼べない物になってしまう。そんな物は知識でも何でもなく個人の身勝手、思い込みです。ですから知識は、摂理や法則と呼んだ方が適切だと思います。摂理や法則を含む実世界の写像がソフトウェアですよ。
A いやいやそれはおかしい。誰も実世界を記述することはできませんよ。実世界から受けた認識を個人が必ず媒介して言葉にしています。そこには、個人の経験を元にした知識しかない。あなたの言うような絶対の知識なんてものは存在しません。結局語っていることは、それぞれ個人の知識でしかないのです。窓の外に山が見えていたとします。その山が本当にそこに存在しているかどうか実は解りません。しかし、目に映る映像や過去の経験から山が見えるとしているのです。先ほどの仏教でも、「各々の心は異なる」という大前提があります。ただ、その心の関係性、因縁が世の中を作り出している。仏教にある空(くう)の思想も、個人の心をなくせば結局は何もなくなってしまうということから来ていると考えることができます。「色即是空、空即是色」です。また、20世紀初頭にヴィトゲンシュタインも著書『哲学探究』の中で家族的類似性として似たような事を論じています。あくまでも閉ざされたある家族、社会、世界の中でそれぞれの認識する概念が類似しているだけであって決して同じであることはないとしています。まるで言語ゲームをしているみたいだとね。会話が成立しているが、その意図がまったく別の形で伝わっていたことも、一度や二度じゃなく経験したことがあると思います。
B 確かに、そういった経験はあります。しかし、科学の発展によってそれらの発見されてきた知識は誰もが疑う余地のない正しい物・・・
A 科学が正しい知識だって?本当にそんなことを信じているのですか?これまでの科学は、帰納法による累積的な蓄積した知識でしかありません。これらは、世界の知識ではなく、科学者の世界の知識です。科学は、その世界の中で矛盾がないのであって、実世界を正しく語る知識ではありません。論理学の世界では、ある式を否定したものをもう一度否定すると元に戻るとしています。否定の否定でその意味が元に戻らずに変わってしまうものは世の中にたくさん存在しますが、論理学の世界では、変わってしまうものは取り扱わず、否定の否定は元に戻るとする矛盾ない世界のために思考を停止しています。特に、現在の科学は、絶対神を頂点とする西洋の世界観から生まれてきたものであることを忘れてはなりません。体系化、構造化された世界が科学なのです。私たちは確かに科学の発展による恩恵を受けています。このことは否定するつもりもありません。今後も多くの科学者に科学的な接し方で記述してもらいたいと思っています。だた、科学を無条件に正しいと受け入れることは、科学という宗教の盲目な信者のようであり、とても危険なことです。
B そう言われると辛いですね。わかりました。もう少し、広い視点で考えてみます。
A 話が少し外れてしまいましたので元に戻します。累積的な蓄積した知識である科学という制約によって矛盾のない世界があるからこそ矛盾なく記述することができます。しかし、個人の中にある矛盾だらけの心を、心のまま記述することはできません。心は矛盾があっても受け入れることはできますが、記述するためには、ある種の制約や条件を置く必要があります。家族的類似性に見られるような国家、教育、文化的な背景や業界や職場といったその人がそれまでに培った経験によって制約や条件が置かれます。これまで教わってきたコンピュータ科学やソフトウェア工学ものもその一つです。常識であると思っている事の多くは社会環境とそこで培った自身の経験によって支配されています。本当の心を記述することはできない。制約を設けて思考を停止させることで始めて記述可能になります。だから、心そのものの記述ではなく、心の写像、知識の写像と言うのです。
B もし、こういった制約がなければ当然会話も成り立たなくなってしまうということですね。
A そうです。また、記述言語の自由度によっても制約や条件は変わります。記述言語が物理法則に大きく影響されるもの、所謂、ハードウェアといった物は、その記述の自由度は低くなります。自然言語と表情、身振り手振りといったものを使うことが最も高く自由に記述できる言語でしょう。
B これまでのお話を聞いていて、芸術家は、木や粘土といった自由度の低い制約の中で知識を記述している人なのではないかと思いました。自由度が低い作品から創作者の知識を受け取ることが難しくなりますね。送り手と受け手が同じような類似性を持っていれば知識を受け取ることができるのでしょうが、類似性が低いとその知識を受け取ることは難しいですね。私も美術館で古い陶器を見た時に、その良さがさっぱりわからなかったという経験があります。馬の耳に念仏です。
A 知識を送り手から受け手に渡すことは、言語を複写することによって知識を伝えることであるとも言えないでしょうか。言語は複写可能です。
B ソフトウェアが知識のことであるという主張はわかりましたが、ソフトウェアが個人の知識であるとすると、これまでのソフトウェアという概念が大きく変わってしまうことになります。ハードウェアとソフトウェアの間にある、記述の部分をどのように考えればよいのでしょうか?この絵(図1)の真ん中のところです。ソフトウェアの写像の部分です。
図 1
A はい。私はこの写像の部分を「リアルウェア」と呼んで、ソフトウェアやハードウェアとは一線を引きたいと思っています。この言葉は、私が作り出した言葉です。
B 「リアルウェア」ですか…
A はい。リアルウェアは、心、知識であるソフトウェアの記述、写像です。リアルウェアは複写可能であり、当然、人工物です。リアルウェアは、心とは違う外側の世界に存在します。マイケル・ジャクソンのプロブレムフレームのマシンと同等のものであると考えると解りやすいでしょう。ですから、リアルウェアは、ハードウェアを含みます。この絵(図2)のように、これまでのソフトウェア/ハードウェアの境界を、ソフトウェア/リアルウェアの境界に変えて考えるようにします。このような境界で考える事の方が、ソフトウェア/ハードウェアと分けることによって発生する機能/非機能といった言葉に見える曖昧性がなくなるのです。知識の写像となるリアルウェアが、仕様書なのか、プログラムソースなのか、コンピュータの上で動く機能なのか、絵なのか、ハードウェアなのか、ネットワークなのか、クラウドなのかということは問題ではありません。大切なことは、リアルウェアが送り手の知識を写像し、複写することで、知識を受け手に伝えることです。
図 2
B そう考えると、わかりやすいです。ソフトウェア技術者は、ある人の知識や集団の知識をリアルウェアに写像するということですね。ソフトウェア技術者と言うよりは、ソフトウェア通詞者といった方がぴったりくるのではないでしょうか。通詞者ですから、ある自由度の中で可能な限り適切に知識を記述できるように、たくさんの言葉や言い回し、即ち、仕様書の書き方からプログラミング言語、APIやパターンやアルゴリズム、ミドルウェアの設定と言った慣用句を身につける必要があるのではないでしょうか。まるで、赤ちゃんが日本語を覚えるようなものですね。ソフトウェア技術者として一人前になるために多くの時間と経験が必要であることが納得できます。
A さらに、知識は個人の経験によってのみ形成されると先ほども言いました。赤ちゃんが日本語を覚えたことも経験です。知識が経験によって形成されるということは、ある時点の知識をリアルウェアとして写像すると、受け手は、リアルウェアやその周辺から受けた経験よってこれまでの知識に影響を与え、知識を変化させます。その影響がわずかであったとしても知識の形成は、カオス的に変化します。ソフトウェアを知識とすると、これまでのソフトウェアにあったような静的な物の見方では対応できません。ソフトウェアを扱うためにアジャイルプロセスのような考え方が生まれてきたのは、至極当然のことです。この世は、諸行無常なのです。
B ソフトウェアを知識として捉えると、これまでのソフトウェアに対しての考え方が変わってきますね。
A これからのソフトウェアは、できる限りソフトウェアのまま扱う必要があります。ソフトウェアのまま扱うということは、知識のまま扱うことです。知識は一度記述してしまうと多くの知識が欠落し不完全な知識となってしまいます。知識のまま扱うには、記述しないことが一番ですが、リアルウェアとするためには知識はなからず記述しなければなりません。ですから、制約の高い言語ではなく、柔軟で自由度の高い自然言語のような言語を使って知識の欠落を抑えて記述することが必要となるのです。
B 送り手の知識を知識のまま扱えるようにすることは、もっと追究しなければならない点ですね。個人もそうですが家族的に類似した知識として扱えるようにならなければなりません。私たちはこれまで、当たり前のようにたくさんの仕様書やソースコードといった物を作ることを生業としてきました。しかし、作る、記述するということは知識を欠落させることになるから記述せずに、そのまま扱う方法を考えること、作らないということが私たちの生業になるのですね。
A そうです、ソフトウェアを知識とすると、新たな発想や可能性に期待することができます。新たなソフトウェアの学問も必要となってくるでしょう。これまでのソフトウェアとハードウェアという関係性ではなく、ソフトウェアとリアルウェアという関係にすることで、ソフトウェアやリアルウェアの研究が進むとも思っています。
B すみません。まだ、聞いてみたいこともあるのですが、会議の始まる時間になってしまいましたので失礼します。今度は冷たいビールを飲みながらやりたいですね。
A それはいい考えですね。今日はお相手していただいてありがとうございました。
解説
これまでのソフトウェアは、科学の一分野としてコンピュータ科学やソフトウェア工学といった帰納法による累積的な知識蓄積の上に成り立つ常識の上で理解、探求されてきました。私は、これらの常識を疑うこともなく正しいソフトウェアの扱い方であると信じ、利用してきましたが、数十年前のコンピュータという高度な機械を操作する技術者を必要とする時代から現代へとコンピュータ技術が発展するとともに、ソフトウェアの扱い方に対する大きな疑問を抱くようになりました。
まず、第一点に、ソフトウェアの本質的困難とされる不可視を利用した曖昧な理論が多すぎるということです。システムやモデル、アーキテクチャ、要求等といった語彙からも解るように、現在のソフトウェア工学では、各々が各自の経験や語彙を用いて議論を進めています。ビジネス上の優位性を出すために、バズワードを含む様々な語彙を都合よく組み合わせ使うような場合さえあります。帰納法による累積的な知識蓄積の上で成り立っている学問であるはずが、語彙が曖昧すぎるため反証すらできません。これでは工学としての信憑性を欠くことになります。プロジェクト管理等の分野でも同様に見られます。
このことは問題ではありますが、これまでのソフトウェア界が発展していく上で、過去に囚われずに自由な議論をする時代には必要な事であったと思います。私自身もこの中に含まれ、曖昧な語彙を多用せざる負えない状況にいます。今後、科学的にソフトウェアを発展させるためには、きちんとした語彙の整理が行われるべきです。
第二点目は、第一点目にある科学的アプローチだけがソフトウェアを扱うための方法であるのかという疑問です。これまでの科学は、西洋思想の絶対神を頂点に広がるヒエラルキー構造を基に考えられていることは知られています。神という絶対の存在を定義し、思考を停止することで体系的に扱うことが容易になります。全体を掌握するためには思考を停止しなければなりません。思考を停止せずに制限がなければ、語る事すら不可能になります。複雑性、不可視性といった本質的困難を特徴とするソフトウェアも無限であり体系的に扱うことに無理があると考えるべきです。
科学的なソフトウェアへのアプローチの中のひとつに、ソフトウェアの観察者自身を含まないという「思考停止」があります。観察者自身を含まないことで、ソフトウェアを静的に捉え易くなり、体系化や理解を容易に進められます。しかし、実世界にあるソフトウェアが、実世界にいる観察者からの影響を受けないということは考えられません。最近になってアジャイルプロセスやソフトウェア・ライフサイクル、コンテクスト、知働化といったことが議論されるようになったということは、観察者自身にまで思考の範囲を広げていかなければならないといった事の表れであると考えます。
私は、これまでと同じような科学的アプローチをやめろと言うつもりはありません。これまで同様に続けて探求すべきことであると思います。しかし、科学だけを絶対の物とするのではなく、世の中の全ては「思考停止」の上で語られてきたことを知り、思考を停止する範囲を広げて考えることが必要なのです。
近年では科学の世界では、西洋思想だけでもなく仏教や儒教、リゾームといった東洋思想による思考が大きな役割を持っています。西洋思想だけで考えることの限界が見えて来た今日の科学で、東洋的な思想も使って考えることは当たり前の事となっています。ソフトウェア界を見ると、そこだけが、未だニュートン時代の思想で思考を停止しているかのようです。絶対的な西洋思想に比べて、東洋思想は相対的で捉え難く、解り難い部分がありますが、これからのソフトウェアを扱う上でも、東洋的な思想は大いに役に立つと考えます。現在の科学がそうであるように、これまでの神中心のソフトウェアから人間中心のソフトウェアへと人間化していかなければなりません。
私は、先のような疑問から今一度ソフトウェアの原点に立ち返りたいと考えました。ソフトウェアとは何であるのか、ソフトウェアを知らずして、ソフトウェアを語る事はできません。これまでのソフトウェアという言葉をもう一度考え変え直してみたいと思いました。
ソフトウェアが何であるかということを追求することは、西洋のデカルト的な発想であるとの見方もできるため本論と矛盾するよう思えますが、私は、ソフトウェアが何であるかと問われれば「空」であると答えます。空の思想はデカルト的な発想とは違い、どちらかと言えばヴィトゲンシュタインの言語ゲームのような発想です。ソフトウェアという存在はありません。あくまでも個人の主観の中にある世界であると捉えます。デカルト的な発想で有ればそこに存在を見出さなければならないことになるでしょうが、空であればその存在はあるともないと言えないのです。
書籍や論文といった章、項、段のように著作は往々にして体系立てて書かれることが良い文章であるとされています。これには西洋的、科学という背景が前提となっています。私たちは、幼少の頃から教育され、このことに慣れ切っていて疑うことすらありません。しかし、不可視であり複雑な世界を表現するために体系立てて記述することは欠落を生みます。一人の人が全てを読むことができないぐらい多くの経典が存在する仏教は、世界を表現することの難しさを表しています。そこで、本論では、プラトンやファイヤアーベント、仏教経典に倣い体系化しない問答の形式で表現したいと考えました。現在において、これが到達したいソフトウェア記述に最も近い形です。
〔参考図書〕
・ Frederick Phillips, Jr. Brooks著, 滝沢 徹訳, 富沢 昇訳, 牧野 祐子訳 、人月の神話—狼人間を撃つ銀の弾はない、ピアソンエデュケーション、2002/11
・ マイケル・ジャクソン著,榊原 彰監訳,牧野裕子訳、プロブレムフレーム ソフトウェア開発問題の分析と構造化 IT Architects' Archive ソフトウェア開発の課題3、翔泳社、2006/5
・ 大槻 繁、ソフトウェア開発はなぜ難しいのか ~「人月の神話」を超えて、技術評論社、2009/10
・ 朝永 振一郎、鏡の中の物理学、講談社学術文庫、1976/6
・ 高橋 昌一郎著、理性の限界、講談社現代新書、2008/6
・ 野家 啓一著、パラダイムとは何か クーンの科学史革命、講談社学術文庫、2008/6
・ Paul K. Feyerabend著,村上陽一郎訳、知についての三つの対話、ちくま学術文庫、2007/ 7
・ 黒崎 宏著、ウィトゲンシュタインから道元へ、哲学書房、2003/02
・ 中村 元著、『般若経典』 (現代語訳大乗仏典)、東京書籍、2003/02
・ 中村 元著、『法華経』(現代語訳大乗仏典)、東京書籍、2003/04
・ 中村 元著、『華厳経』『楞伽経』 (現代語訳大乗仏典)、東京書籍、2003/02
・ 石飛 道子著、ブッダと龍樹の論理学—縁起と中道、サンガ、2007/9
・ 太田 久紀著、唯識の読み方—凡夫が凡夫に呼びかける唯識、大法輪閣、2000/09
・ 松久保 秀胤著、唯識初歩—心を見つめる仏教の智恵、鈴木出版、2001/11
・ 佐々木 閑著、犀の角たち、大蔵出版、2006/07
・ 末木 文美士著、日本仏教史—思想史としてのアプローチ、新潮文庫、1996/08
〔プロフィール〕
株式会社アッズーリ代表取締役社長。メーカ系ソフトウェア会社でプログラマを経て、フリーとして独立、1999年に同社設立。経営やプロジェクト管理の視点からアジャイルプロセスを推進する。アジャイルプロセス協議会会長。同協議会、見積&契約WG及び知働化研究会メンバー。ソフトウェアファクトリ研究会。
読者からのコメント
大槻氏:いくつかのセクション(話題)に区切るとよいと思います。
はま: 今回のところセクションにしたくないんです。
セクションを作ってしまうと境界を設定することになるので、私の意図に反します。
大槻氏:A,Bじゃなくって、人物像(キャラ)を設定してそれらしい名前で呼ぶのがよいかも。
放浪の修行僧「知道」とカリスマハッカー「賢徒」との対話なんちって。
はま: キャラ設定は必要かなとも思いましたが、これも読み手がなんとなーーく勝手に設定してもらって良いと思います。
ただ、AとBじゃ味気ないので、キャラ設定が匂うそれっぽい固有名詞をつけてみようかと思います。
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